しらぬまに つもりし雪の ふかさかな

2022.03.25

しらぬまに つもりし雪の ふかさかな             久保田万太郎

人は、日々経験や思い出を重ねていきます。

気がつくと、あの出来事もこのお話も、いつかどこかで聞いたような、知っているような事柄だったりして、うまく言葉として表現できなくても、いつの間にか厚い層のように堆積している記憶のようなものがあって、現在の自分自身の人格を形作っていることに気づくことがあるようです。


「思い出の歌」のことを思えばこのことはたやすく理解できます。

日頃は意識して考えることはなくっても、むかし流行った歌謡曲や洋楽のメロディーや、子どもの歌などをふと聴いたりするとき、確かに自分のなかで反応するある種の懐かしい思いのようなものが甦って、感慨にふけったりするものです。

香りや味覚などでもそんなことがあったりします。それは良い思いばかりではなく、苦い、くるしい、辛い思いが頭をもたげたりすることもあります。
 
今まで経験したことがない新しい事柄に直面することがあったとしても、それがどういう種類に属する事柄であって、いま自分はその種の経験にはどのように対応するべきなのか瞬時に察知して、落ち着いた対応ができるということがあったりもするでしょう。


そう考えると、人がその生きた時代に、その時代ならではの出来事の中でしか生きてこなかったはずなのに、知らない出来事を十分に理解し得るものとして把握していくことが出来るとしたら、ひょっとして、時代を超えた人間の本来的で普遍的な心の営みのようなものがあって、いつの間にか降り積もっている雪のように、測り知れない過去の記憶を現在に活かしつつ、静かに音もなく降り注ぐ雪ような心境で、その体積のなかで、その厚みと同化するように、この生を終えていく世界があるのかも知れません。
 

久保田万太郎のこの句には、そんなことを思わせる深い味わいがあります。

昔の老人のことを思うと、その人生で経験する出来事の違いは、それぞれによって全く違っていたとしても、決して今の自分とまったくかけ離れた、別人格のそれだとは思えないのです。

人生に同じものはあり得ませんが、すでに十分に厚みを持ち仕上がっている人間存在の、「個」を超えた共通認識の「場」が有りはしないかと思えるのです。


浄土真宗のご法義において「平生業成」(へいぜいごうじょう)という言葉があります。

これは今現在のこの私の上に測り知れない広大無辺な如来の働きが、すでに仕上がり、「私」を超えた私として宿っているとでも顕わすべき内容の言葉です。「南無阿弥陀仏」とはそんな世界を感知させてくださるものでもあります。

南無阿弥陀仏
                                              南無阿弥陀仏