人は仰いで鳥を見るとき その背景の空を見落とさないであろうか
三好達治『鳥鶏』より
「見ている」ことと「見えている」こととは微妙に違います。
「聞いている」と「聞こえている」というのも微妙に異なるものです。
親が言う小言は「聞こえて」いても、「聞いている」とは限りません。
物事には必ずその背景があるものです。
表立って感ぜられている世界と、その背景までも含めて共に感覚する事とは、同質とはいえません。
この三好達治の言葉のように、空を悠遊と飛んでいる鳥を地上から眺めるとき、空の存在までを含めて意識する人は希であると言えるでしょう。
お店で出てきた料理をスマホで写真に撮っている人のうち、何人のひとがその料理を作った料理人の苦心に思いを向けるでしょうか。
しかし、もしもその料理が、自分の身近な人が自分のために提供してくれている料理だったとき、その料理の背景であるところの作り手の思いの、その片鱗でも味わうということがあるとするなら、それは人間が人間らしい日常を送るうえで、大切な要素の一つの顕われではないだろうかと思います。
今、この言葉から教えられることは、自分にとって、自分以外の人物や物がらは、自分自身の背景として必ず存在しているはずですが、ややもすると、そのことは見落とされ、「他者」に対する姿勢が、すべてが他者から受け取り「ギブ」されたものであるにも関わらず、自ら「ゲット」したものにしてしまう思い込みとなって、感謝を忘れた日暮らしになってしまいがちだと言うことです。
自分と他者とは、実はまったく対等に存在しています。
つまり「私」ということは私以外の「他者」が存在しないと成り立たない存在だと言えるのです。
だから、すべての「他なるもの」は、「自なるもの」の背景であって、相依相関で成り立っています。
しかし、このことを「自なるもの」は見落として生きていこうとします。
「見えて」いても「見て」いない、「聞こえて」いても「聞いて」いないわけです。
三好達治のこの言葉は、大空という果てしなき空間を背景に、自由に舞っている鳥の姿を仰ぎ見ながら、地上の者は、同時に見えているはずの空を見落としてしまっている過失を指摘しています。
「仏さま」は、「私」と別個に存在しているのではないという理屈は、本来は当然常に意識されても良いはずのことなのですが、それをあえてはねつけてしまって、「自なるもの」だけで事足れるとしてしまっているところに、「迷い」の衆生が、あえて人間らしい要素を放棄してしまっていることになってしまうということです。
その構造から「南無阿弥陀仏」のおいわれを思うとき、私があっての南無阿弥陀仏だし、南無阿弥陀仏があっての私であったと「聞き開かれ」ていく「私」自身の気づきが起こっていくわけです。
南無阿弥陀仏
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人は仰いで鳥を見るとき その背景の空を見落とさないであろうか
2022.10.04