六月の 奇麗な風の 吹くことよ

2023.06.26

六月の 奇麗な風の 吹くことよ
             正岡子規

 子規は、若くして難病に冒され、長い闘病生活の末に命を終えていきました。

その病床の中で詠んだ句を『病床六尺』という句集にまとめていて、その頃の句だと思われます。

六月の梅雨時期には珍しいような、気持ちの良い風が吹いたのを、「奇麗な風」と見事に詠んでいます。
湿気が多くて過ごしにくい日本の雨季にあって、しかも病床に於て、思いがけず吹いた一陣の風の爽やかさに驚き、「奇麗な風の吹くことよ」と、詠嘆しているわけです。

 
 『観無量寿経』の中に、それぞれの人生ののちにいよいよ臨終を迎え、その生前の果報によって様々な有様で浄土に往生していく人の様相が表わされる中に、生涯悪業を造り続けて省みることのなかった悪人の命終の折に、その者を救わんとする仏のお慈悲の働きの功徳によって、悪業の報いであるところの地獄の猛火が、「清涼の風」となるという一節があります。

 このお経が何を言わんとしているのかと言えば、勿論、仏さまの功徳であるには違いないでしょうが、その表現の有様が、思わず子規のこの句の表現と重なるところが有りはしないかと思います。これは実は子規に限らず、すべての人間の現実を浮き彫りにしていて、大いに考えさせられるところがあるはずです。


 よく考えると、現実のそれぞれの人生において、その「生きる苦しみ」とでもいうものは、根本的な存在苦が背景としてあるので、誰しもひと時も本当のやすらぎを得ることはありません。
過去現在未来のすべてに亘って根本的な不安は拭い去れないのです。

 それを譬えるなら、むせ返るような灼熱の、暑く息苦しい、それこそ絶え間ない欲望の猛火の中、或いは、暴風雨の中に身を置いているという私の現実があるのだいうことが言えるかもしれません。そして、その根本的状況というものは、おいそれと改善されるものでもないはずです。

 
 子規は、そういう中で「奇麗な風」が吹いたと詠んでいるわけです。この「奇麗な」という表現にこそ、子規の己の命に対する畏敬の念が顕われていると感じます。

 
 地獄の猛火の中に一陣の「清涼の風」が吹くという表現は、明らかにこの上ない救いの表現であると受け止めることができます。
 
 その救いに出遇うことによって、たとえ自業自得の然るべき果報の中にあって、その事自体の変質があるのではなくても、落ち着いて呼吸ができるひと時が恵まれるのではないでしょうか。

 娑婆世界の欲望渦巻くむせかえるような猛火の現実の中にあって、南無阿弥陀仏の如来様の功徳の真実が、わが身の上に計らずも敬信(きょうしん)となってはたらいている姿は、この身にこそ味わうことができるのだと思うのです。

  南無阿弥陀仏