鳴きだして 重くなりたる 虫の籠 村上喜代子
澄んだ空気に、虫の音が聞こえている秋の風情を歓ぶというのは、日本人の特性の一つだというのを、高校の時の文化祭で聴講した岡潔先生の講演で知りました。
もう遠い昔のことですが、はっきりと憶えています。
岡潔博士は、当時世界的数学者として有名な方であると同時に、哲学者としても著名な方で、しかもお念仏を喜ぶ仏教者としても知られている著名人で、一般人を対象にした多くの著書も書かれてある、日本を代表する知識人の一人でしたから、地方の都市の一高校の行事に過ぎない文化祭にも関わらず、多くの一般聴衆が集まり、講堂は超満員で、主役のはずの生徒たちは、二階のギャラリーや講堂の外から立ち見で聴いていたのを思い出します。
すでに随分ご高齢であったにも関わらず、一体なぜ博士が講演に来て下さったのか、その辺の事情は分かりません。
講義の内容は日本人が持っている情緒というものについての話でした。
その時博士は、情緒というものは大脳の前頭葉の働きで、前頭葉は、大部分言葉を感知する器官であるというような話をなさり
西洋人などには、秋の虫の音というようなものは、ただ雑音にしか聞こえていないが、日本人は虫の音を、情緒を司る前頭葉で感知する。
ということは、虫の音を声として聴いているという事が、近ごろの研究で分かっている。
という話でした。
そして、この「情緒」というものを、自ら育むことが大切であるという趣旨の話であったと思います。
言葉には不思議な力がある。
言葉は単なる意思伝達のための手段というばかりではなく、言葉そのものの味わいというのか、受け止め方によって、聞く者、或いは発する者の心が微妙に影響を受けるということは、自然にあることなのでしょう。
音声というものには、単なる「音」というだけではなく、感じる者の上に響いてくる「響き」というものが存在していて、その「響き」は、遠い過去世から受け継がれてきた心であるということかも知れません。
今月のこの句には、このような命の「重み」、生命の響き合いのようなものが味わわれる気がします。
この作者は明らかにこの虫籠のなかの、小さな虫の命の響きに聞き入っています。
わが命と共鳴しあっているように思えます。
当然この共鳴は、秋の虫にだけではないはずです。
人それぞれ、いや、「私」というものの上には、計り知れない太古の昔からの命の響きの通じ合いが常に存在し続けていると言えないでしょうか。
南無阿弥陀仏