文明とは 普く道の 行わるるを 賛称するの言 西郷隆盛 『南洲翁遺訓』より
西郷さんはここで、文明というものを理解するのに「道」が実践され、敷衍(ふえん)されていくことを志向していう言葉だと言っているのだろうということはすぐに分かりますが、では「道」とは何かと考えると、この「文明」というものが何に対して言っているのかが問題となるわけで、それは「野蛮」に対して言っていることと窺えます。
すると、この「文明」と「道」との関係性から、「野蛮」を否定するものは、「徳義」でならなければならないので、この文脈から、「文明」とは、「徳」が顕われ広まっていくことを言うのだということになろうかと思います。
この時代、西郷さんが暗に揶揄(やゆ)しようとしているのは、「西欧の文明」というものがアジア諸国に対して行こなっている行為が、決して「文明」と呼べるようなものではないということです。
つまりそこには「徳義」が感じられないから、当時の政財界の同時代人たちが、西欧の進んだ技術や制度にばかり気を取られて、根本的な他国に対する国の姿勢というものを問題視し、そこに歴史や文化水準の隔たりを感じていないばかりか、ただ盲目的に追随しようとばかりしている態度に、憤りをもってこの言葉を発していることは明らかです。
そこで「道」ということをしっかりと認識し、それを実践するということを真剣に考える必要をこの言葉から感じ取らねばならないと思うのは私ばかりではないだろうと思います。
つまり「徳」ということの大切さがもっと語られるべきであって、そうでなければ、子孫に対して教え、引き継ぐべき内容がないことになりはしないかと危惧(きぐ)するわけです。
この数百年がそうであったように、人間社会の制度や知識や技術の変化はめまぐるしく、目新しいものばかりに目移りをして、いつの間にかその変化に追随することだけを志向する社会構造になり果ててしまっていはしないかと思うのです。
「野蛮」ということから守られなければならない中身は何なのかという問題が大切なわけです。
「覇道」という言葉があります。
これは武力や策略などにより国を支配する政治のやり方を言います。
これに対するのは「王道」という言葉です。
これは儒教の言葉で、王が仁徳(じんとく)によって治める理想的な政治の形です。
政治の話をここで言うのではありませんが、如来様の話は、この「お徳」という話であるということを聞き開く必要があると思います。
『大無量寿経』の異訳の中に阿弥陀如来の言葉として「前世に悪の為わが名字を聞き、まさしく道のためにわが国に来生せんと欲(おも)はん。」とあり、自らのなかの悪ー「野蛮」ーを知り、それに対して志向するべき「道」としての「徳義」の世界を如来の功徳世界であるところの「浄土」として語っているのです。
思えば、法蔵菩薩はもともと国王として語られている存在です。阿弥陀様の根本の願いを「王本願」と申します。
南無阿弥陀仏