あきかぜの ふきぬけゆくや 人の中 久保田万太郎
街路樹の枯れ葉が舞う都会の雑踏の秋の風景を思わせるこの句は、ひらがなばかりで、どこか殺風景な内面の寂しさも感じさせます。
「世間の風当たり」などという言い方がありますが、人の世の冷たさや、生きる上の孤独感なども併せて詠まれている気がします。
しかし、この「人の中」という言葉から、秋の夕方に、人が人を思う、深い思索のようなものも思われます。
もしも、この「あきかぜ」というものを「私」に置き換えて考えてみると、夏の盛りのひと時をいつの間にか過ぎてしまって、秋の声が聞かれるほどの年齢に達してから、改めて今まで出会ってきた様ざまな人々のことを思い浮かべて、物思いにふける秋の風情もどこかに窺(うかが)われます。
三浦しおんという作家の『舟を編(あ)む』という小説が一時話題になりました。
「舟」というのは、広大にして底知れぬ言葉の海を渡るための指標(しひょう)としての辞書や字典のことを譬えて言っているので、「編む」とは、その編纂(へんさん)のことだそうです。
考えてみれば、言葉とは無数に存在していて、しかもそれぞれに人の心が宿っているものだと言えます。
してみると、言葉はこの無量無数の人々の心の集合体であって、様々な言葉がそれぞれの人生の中から、それぞれの出会いを通して、生まれては消えていく宿命のものです。
そんな言葉の意味を推し量って、人の心を読み解く道標としての辞書ということをテーマとした小説なわけでしょう。
考えてみれば、私たちは今、言葉の海の最表面に位置し、どこへともなく漂っている漂流者だと言えるのかもしれません。
行き着く目的地については、陸地も漂流物も見えない、あて頼りとする存在もない、自力で泳ぎ切ることもできない浮草状態であると考えれば、この句が図らずも醸し出している人間存在の孤独で寒々とした寂寥感(せきりょうかん)を味わわざるを得ない状況だとも言えるでしょう。
しかし、その言葉の海、つまり人の心の海の無限大の歴史の表面に、今こうして生きてるという事は、そんな広大なる背景に支えられているとも言えるわけです。
過去の無数の人間の願いの世界を背負っているとも言えるのではないでしょうか。
この句のいう「人の中」の「人」とは、今現在、街中を歩いている生者に限らず、過去の死者たちについても思いを膨らませてみれば、人間存在の根本的な「願い」についての方向性が顕われ来たって、海流に乗じて心の海に支えられ、風航(ふうこう)に導かれて、往くべき所へと往かせて頂こうと、安心安住の境地もあるだろうということです。
いや、それしかないのではないでしょうか。
如来様の願力の海に今こうして浮かんでいるのです。
南無阿弥陀仏