清水には 裏も表も なかりけり

2022.02.07

清水には 裏も表も なかりけり

清水には 裏も表も なかりけり     千代尼

「清浄」ということを端的に顕わした句でありましょう。
「加賀の千代女」とも言われたこの江戸期の女流俳人は、妙好人といわれたほどの念仏者でもありました。

 水に表裏がないのは当たり前ですが、例えば、雑ざりものや濁りがあったとすると、その見え方は純粋なる水とは異なり、見る側の位置や思いで変化したりすることに対比させて、その清らかな有様を「清水」といっているわけで、ただストレートにいわゆる「水」を詠んでいるわけではないので、つまりは仏教的内容を詠みこんだ作品であると味わうことができます。

つまり、清水の清らかで濁りなき姿をとおして仏さまのお悟りの世界の汚れ無きことを顕わしているわけです。


仏さまとはつまりはこの「清らか」という世界のことを表すわけです。

 
「裏も表もな」いということは、固定的な姿がないということですから、言いかえれば、真実というものには我々の分別の智慧で思い図って、こうだああだと決めつける物柄はない。逆に言えば、どこを押さえても「それ」だということです。

 それに対して私の分別というものは、自分というものを中心に置いて、右か左か、白か黒か、良いか悪いか、善か悪か、損か得か、自分に関係することか他人ごとかと、ああだこうだと分別をとりとめもなく繰り返して果てしなく隔てをつくりつつ生きている、そんな私の日常から仏さまのお悟りの世界を仰ぎ見て讃嘆されている句だということになりましょう。

 どこを押さえても「それ」だということは、私の心身の趣くところすべてに亘って存在する存在のことを言っていることになります。

 つまり、私と仏(如来)や、穢土と浄土や、生と死とかも、ひとつの「清浄」という観点から考えれば存在していないときっぱりと言っていることになるので、千代尼自身の宗教的ご安心の在りかというか、視座を見事に言い切っている句だと思われます。

 念仏や信心ということも「これが本当の念仏だ信心だ」と言ってしまうとどこか綻びが出てくる、自身の決めつけなり思い込みにの世界に成り下がってしまう、そう言ってしまった先から、如来の清浄なる真実とは隔たりが出てしまう。


ですから、ある意味、どこを指しても如来の真実、清浄なる世界の、南無阿弥陀仏の名号の用(はたら)きでないものはない、そのことを「名号」と顕わしてあるわけです。


 考えてみると、名号とは名前の事ですがそれは言葉です。言葉というものには内実はない。ただ働きがある。それが私自身の自分本位の分別や計らいを打ち砕く作用となる不可思議な力であると受け止められていくのです。
                                             

                                            南無阿弥陀仏